2022-09-26 舞台を簡単に作れると思わないでほしい
春に小劇場で上演した作品を練り直してまた発表したいと言うから、ちゃんとクリエイションをするつもりなら、と知っている劇場に上演させてもらえるように頼んだ。
バカンスに入ったら一切連絡がなくなり、新しいシーズンがはじまって本番1ヶ月を切っても連絡がないな、と思っていたら今日になって「本番の2日前に照明合わせするけどそれまでに1度お茶でもする?」とメールが来た。
く…、クリエイションは?
40分の作品を60分にしたいのではなかったの?
確かに小劇場では一旦の完成形を上演しているし、もしこれ以上付け加えるシーンがないのなら私自身はリハーサルは数回しかいらないとは言ったが、まさかリハーサル0回で本番に挑もうとするとは…衝撃である。
リハーサルは量より質、と思っている私でも、本番前に一度も稽古せずに臨むなんてそんなことは怖くてできない。
一緒に作品を作っている人のことを悪く言いたくはないけれど、舞台をなめているんじゃないか。
そもそも作品を作りたいと言って誘ってきたのは彼女(映像作家)の方。
彼女が撮った映像の前で、舞踏家と私が踊り、ベーシストが音楽を担当する。
スクリーンの前で即興で踊るリハーサルらしきものが時々あって、次の方針を話し合ってはまた時間をおいて会う(が、また同じこと、スクリーンの前で即興で踊ってみる)という集まりがこの4年のうちに何回かあって、いつ作品にするつもりなのかなと思っていたら、ある日いきなり「本番の日を決めた」と劇場と契約して、結局はリハーサルでやったのと同じようなこと、ただ映像の前で即興をするだけということをした。
4年くらいかけて(コロナの間に会えなかった期間もあったものの)、最初のリハーサルからほとんど変わらないものを人前でやってみせる。それを舞台を作ることだと思っているのか…あまりのことに私も色々意見を用意したものの、蓋をあけてみたらダンスの舞台を作ったことがあるのは私だけで、映像作家はダンスの舞台を見に行くこともないらしい。
春の本番の前にはさすがに何度か稽古をしたのだけれど、稽古のビデオを見たら私以外の人は自分の動きや音を、自分のタイミングでやっているだけでそこには相手への反応もなければ、毎回の稽古での違いもなかった。毎回変化させているのは私だけ。
即興って音楽でもダンスでも自分のできることをただそれぞれが一緒にやるだけで良いわけじゃなく、コミュニケーションと反応が大切だと思うのだけど、みんな自分のやることをやるだけ、しかもそれだけでは全然舞台として成り立っていない。なんだか映画館の映像を遮っておじいさんが間違って立ち上がっているみたいにしか見えない。それを私が、空間と時間と光を使ってなんとか繋いで成り立たせる、というものになった。
私は即興での舞台は慣れているし、ひとりで舞台に立つことも多いから、50分くらいの舞台なら一人でも成り立たせる方法をだいたい把握している。
私はこのままでは自分も関わっているのが辛いし、良いものにならないから、改善できることを色々アドバイスしてみた。普段は人の作品に口出しをしたりはしないのだけれど「演出をするつもりはない、みんなで作ろう」などと学園祭のようなことを言っている作り手にちょっと喝を入れないとまずかろうということで、ちょっと厳しいことも言った。
ただ映画館みたいに映像を後ろで流しているのは正直言って良くない、舞台でやるなら照明のことも考えないと映像がある場合照明との兼ね合いは難しいよ、だいたい本番でもスクリーンにパソコンの操作画面が出てしまったり、タイトルが文字で出てくるのを消してなかったりするのは改善してって言ったのにそのままだったよね?
シーンを付け加えたほうが良いと思う?どんなシーンを加えたい?と私に聞いてくるから、これは私の作品じゃないから私は何も言えない。言うつもりがない。「みんなで作る」なんて私は最終的には無理だと思っている。映画だって監督が3人も4人もいるなんて聞いたことがないでしょ?ディレクションは誰か一人が責任を持って、はっきりしたビジョンを持ってするべき。そうじゃないと作品がぼやける。
もし私に続きのシーンを考えてほしいなら、もし私に演出を頼みたいなら、私は全部変えるよ。映像だって4年前に撮った40分をただ流しにするようなことはしない。別の映像をお願いすると思う。でもそれはできないでしょ?
この作品をやりたいと言ったのはあなただし、ビジョンを持っているのもあなたであるし、ダンサーと音楽家は即興だから変更が利くけど映像は変更がきかない。ならばあなたのビジョンを柱として作品を組み立てる以外ない。
私はあなたのビジョンを知らない。知ったとしても私のビジョンじゃない。
映画の撮影のことを考えたら分かると思うけど、出演の俳優が「このあとに20分くらい私の考えたシーンをくっつけてみたら?」なんてことにならないでしょ。舞台も同じだよ。そんなの、成り立たない。
劇場でやるならなおさら照明も大事だよとさんざん言ったのに「最初につけて最後に消せばいい」くらいにしか考えていなかった。何のために下見に行ったのかわからないけれどスクリーンの大きさも、吊り方も考えていない。
本番直前に私が照明の向きや強さを決めてやっと「真っ暗でダンサーがひとつも見えない」状態を脱する。
でも、時間があるのにそのまま舞台稽古を一度もやらずに本番に突入。
照明の練習(映像作家の彼女がはじめてトライする)しなくて大丈夫?みんなタイミング大丈夫?舞台上に音楽家もいるつもりなの?それで見た目大丈夫…?
本番直前に言いたいことはたくさんあったけれどぐっとこらえて、自分がこの舞台をせめて70点までには上げる思索をする。
結果、春の公演は面白かったらしい。
そりゃそうだ。そこにあるばらばらな状況を私がかろうじて繋いで有機的に動かしたのだから。
私がどれだけ、1秒1秒に神経を払って間をもたせたか、穴とほころびだらけの空間をみつけては掬って縫い止めていったか、それは誰にも分からなかったと思う。
そう。誰にもわからなかった。
みんなにはその日の成功の要因がなんだったのか、わからなかった。
「私達いいものつくったね」という勘違いをしたままわーいと解散し、そのまま夏を過ごしてしまったのだろう。
演出家は自分の見たいものを演者を使って形にする。
でも演者は人間だし個人としての表現者でもある。だからその間でものを作ろうとしたらお互いの間に信頼関係や尊重がないと難しい。(絵や彫刻や建築も何かしらの素材を使って見たいものを形にするわけだけど、長い時間をかけてその素材と付き合うことで、ある意味での信頼関係や尊重が生まれるのだと思うから、そこは人も物も同じことだと思う)
演者は人間であって、普通の生活もあれば人間関係もあれば次の仕事もある。自分というものが資本だからそこに積み上げてきたイメージや、その人の仕事によって新たに得るイメージもある。自分まるごとを明け渡すというリスクがそこにはある。
演出家はそのリスクを知った上で、それでもその演者を使うのだという意識があってほしいと私は思う。自分は何のリスクを負うこともないまま、作品をより良きものにするための前進を止めるのならば、それは観客への裏切りの前にまず演者への裏切りだ。
舞台や映画の世界でハラスメントのようなものが多く起こるのは多分この信頼関係のようなものが特有な形で必要な分野だからなのかもしれない。もちろん人間として、表現者としては対等だ。でも、同時に演者は素材でもある。演者はもちろん表現者として自立しながらも、ある意味では演出家に委ねる部分がある。それは上下関係、力関係、才能の差とかではなくて、その演出家のビジョンが作品の軸になっているという世界観の元に集まっているから、という理由で。
でもその関係に少しでも歪みや無思索や欠損があれば簡単に力のバランスが崩れてしまうのだと思う。
作品を少しでも良くしようという態度が見えないつくり手を、私はどうしても尊敬することができないし信頼もできない。経験の浅さや不器用さに由来する不出来と、いい加減さから来る不出来とは、見分けられる(観客だって見分ける)。後者を私は許せない。
不出来な作品に出演させられて自分が恥ずかしい思いをするから、ではない。
ものを作るということの中にある、基本的な尊重や関係づくりというもの自体を軽視している、そのことが許せない。
彫刻家がひと彫りに全神経を注ぐように、舞台演出だってそこにある全てが意味を持ってしまうという意味ではひとつも蔑ろにできないはず。なのにそこに気を回せないというのは能力の欠如というよりは想像力の欠如であり敬意の欠如だと思う。
演出家がまず表現して伝えなきゃいけない先は演者である。最初の観客であるはずの演者に対して想像力や敬意を欠くということは、実際の観客に対してもそれを持てないのと同じじゃないかな、と思う。
きちんとした仕事の中では、どんな汚れ役をやっていたとしても舞台が終われば「舞台上にはプロの仕事があった」ということで演者も観客も現実にちゃんと戻ってこれる。でも中途半端なものだと、終わってもそれが濯ぎ切れないというか…。
暑苦しく堅苦しいことを言っているのは分かっているけれど、でもつくるってそういうことじゃないのかな。自分以外(人も、材料も、そしてなにより見てもらう人たちがいる)を関わらせるのだからなおさら、誠心誠意注ぐしかないじゃない…。